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特別寄稿

5月13日に開催された、「生命(いのち)を生み出す母親は 生命を育て 生命を守ることをのぞみます」をテーマにした第33回狛江母親大会で講演された、《豊かな会》共同代表でもある、元・気象研究所研究室長、理学博士の増田善信さんのレンジュメを、ご本人の快諾を受け、掲載します。

当日、残念ながら出席できなかった皆さん、ぜひ参考にしてください。                            

 

戦争と天気予報

-伝えたい平和へのおもいー

           

元・気象研究所研究室長 理学博士 増田 善信

 

1、    天気予報がなくなった日

(1)太平洋戦争の勃発(1941年(昭和16年)128日)

128日午前6時臨時ュース「帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」、②当日は月曜日、私は「当番」、午前6時過ぎに家を出て出勤、③家々のラジオから軍艦マーチと戦果の放送

(2)太平洋戦争開戦の日の気象電報の暗号化

   真珠湾とマレー沖海戦での大戦果で浮き浮きした中での通常通りの勤務、②17時過ぎから独り勤務、③18時過ぎから無線の受信、④通常と全く違った電文でびっくり、⑤別用紙に受信し、所長宅に急行、⑥所長慌てもせず、乱数表を取り出す、⑦所長と一緒に解読に努めるも、この時の暗号は解けず(後で、乱数違いの電報を放送したことが判明)、⑧気象報道管制は当日の午前8時に実施されていた、⑨それ以後、気象無線通報は暗号化され、新聞、ラジオ等から天気予報が消えた

 (3)着々と戦争準備はなされていた―軍機保護法から気象管制まで

  ①軍機保護法(1899(明治32)715日制定)、②軍機保護法の改正(1937年(昭和12年)814日制定)―「第12条 陸軍大臣又は海軍大臣は防空その他国土防衛のための軍事上の秘密保護の必要ある時は、命令を持って空域、土地又は水面につき区域を定め、左に掲ぐる行為を禁止又は制限することを得」の中に気象観測が加えられた、③企画院気象協議会設置(1937年(昭和12年)1118日)―戦時体制下では「中央気象台長は軍事上必要な事項については陸軍大臣、海軍大臣の区処を受くるものとする」とされ、気象事業が実質的に軍の指揮下に入ることが決められた、④気象管制の完成(昭和13年(1938年)825日)―天気予報・気象特報・暴風警報は時宜によりその全部又は一部を発せざることあるべし、⑤軍用資源秘密保護法制定(1939年(昭和14年)325日)―気象管制に関する暗号書類、気象資料、天気予報、暴風警報などが「軍用資源秘密事項」に指定される、⑥管区ごとに気象協議会を開き乱数表などを配布、秘密裏に保管させる(19418~9月)

 

2、気象管制は国民にどのように影響したか

 (1)毎日の天気予報は知らされず

①日本海側の”欺瞞天気”では特に困った、②雷雨などの情報も伝えられず、③暴風警報は1回発表。それ以外はまったく発表されず

(2)たった1度の特例暴風警報でも大きな被害

  ①太平洋戦争中、唯一暴風警報が発令された1942年(昭和17年)827,28日の台風、②中央気象台から出される特令暴風警報が遅すぎた、③暴風による通信途絶があった、④地方の測候所が独自に出せる地方暴風警報と特令暴風警報の情報が異なり混乱を招いた、⑤「山口県のように測候所所在地と県庁所在地が異なるところは、警報伝達に時間がかかった、⑥例えば、8月27日17時のニュースの 文言は「今夜より明朝にかけては四国、中国、近畿及其近海、明日は東海道方面に何れも暴風雨となる警戒を要す、特に中国西部、北九州は厳重に警戒を要す、出水及び崖崩れ及其の他の災害に対して万全の注意を要す」というもので、高潮という言葉は一切なかった、⑦周防灘は高潮によって大きな被害を受けたが、被害状況は報道されず、

(3)東南海地震による地震・津波の被害はまったく伝えられず

1944年(昭和19127日1336分、三重県尾鷲市沖約 20 km (北緯338分、東経1366分)を震源としたM7.9のプレート境界型巨大地震、死者998名、②三重県尾鷲港では100トンの漁船2隻が海岸から150mもの所に打ち上げられていたが報道されず(この事実を使って、三重県海山町の原発導入反対の住民投票を応援、勝利する(20011118日))、③学校や軍需工場等を中心に死者1,223人の被害が発生した、④最大の被害は、半田市の中島飛行機の工場で、学徒動員の学生96人を含む153人が亡くなった

 (4)三河地震も伝えられず―東南海地震の37日後

1945(昭和20)年1月13日午前3時に、マグニチュード6.8内陸直下型の三河地震が発生し、死者は2,306人に達した、②報道管制により、ほとんど報道されなかったが、現実には岡崎平野南部や三ヶ根 (さんがね) 山地周辺(現在の安城市、西尾市、幡豆(はず)郡吉良町、同幡豆町、額田(ぬかた)郡幸田(こうた)町、蒲郡市など)に局地的な大被害をもたらした、③学童疎開の学童も多数死んだが、秘密保持のため、その死を親にも知らせず

 (5)気象管制は今でもある?―湾岸戦争時からイラク戦争の間のイラクの例

  199082日のイラクによるクウエート侵攻をきっかけに湾岸戦争が起こり、国連が多国籍軍(連合軍)の派遣を決定、③1991117日からイラク空爆が始まった、④2 24日には地上戦も始まり、僅か3日間で首都クウェート市は奪還され、イラク南部とクウェートは多国籍軍に制圧された、⑤19914月、イラクは「国連安保理決議687」を受諾し、停戦となる、⑥この議決はイラクが保有する大量破壊兵器の破棄などを義務づけ、後のイラク戦争の原因になった、⑦湾岸戦争とイラク戦争の間に、多国籍軍のイラク空爆に備えて、イラクが気象管制を実施したのではないかと類推される

3、    軍事研究に利用された気象研究 

(1)目を疑うような学術研究会議の特別委員会名

   熱帯医学、②地下資源開発、③音響兵器、④航空燃料、⑤国民総武装兵器、⑥磁気兵器、⑦電波兵器、⑧噴射推進器、⑨非常事態食糧など

   湯川秀樹先生も原爆開発で軍と協力

(2)私が体験した軍事研究―川畑幸夫天測課長の依頼

   霧の場合の飛行場の離着陸灯にどの色の電灯が適しているかを求める研究、②1944年(昭和19年)7121日、苫小牧測候所で実施、③霧が発生した夜、ウィーガント視程計で、白、赤、青、緑の4色の電灯の視程を測定し、油を塗ったプレパラートで霧粒を採取、顕微鏡でその数を測定し、その関連性を調べた

(3)唯一アメリカ本土を攻撃した風船爆弾(「ふ号兵器」)―荒川秀俊技師の研究

   1942(昭和17)8月、陸軍、登戸研究所に風船爆弾の開発を要請―同年418日のドーリットル空襲がキッカケ、②高層気象台の長年の高層風の観測から日本上空に強い西風が吹いていることが分かっていた、⓷1012km上空の等圧線図をつくることを荒川秀俊技師に委嘱、④地上の月平均の気圧、気温の分布から1012km推算気圧分布図を求めた、⑤冬季はほゞ西風ジェットが吹いていて、数日で風船がアメリカに着くことがわかった、⑥寒さに強い風船をつくるため、「日劇」など大きな建物を利用、和紙をコンニャクイモのノリで張り合わせた、⑦高度を維持するためバラストを落としながら飛ばした、⑧アメリカ本土を攻撃した唯一の兵器

4、海軍予備学生で海軍に入隊し、少尉に任官、大社基地に赴任

 (11945(昭和20)6月中旬大社基地に赴任

   1944年(昭和19年)915日、気象技術官養成所(現気象大学校)を卒業、②925日、海軍予備学生として武山海平団に入隊、③194531日、海軍気象学校(茨城県阿見町)、④61日、海軍少尉、⑤68日ごろ、山陰航空隊三保基地着任、⑥615日ごろ、大社基地に転勤、終戦・復員まで勤務し、基地及び沖縄那覇上空の天気予報を行う

(2)大社基地での業務

   60人の気象隊の責任者の気象士として勤務、吉田准士官が庶務を担当、②1分隊15名、4分隊で交代勤務、③1日に2回天気図を作成、主に基地周辺の天気予報(6時と15時のデータ使用)、④通信科で受信した電文を兵隊が乱数表で解読し、下士官が天気図にプロットし、それを基に私が天気図を描いた、⑤しかし、地点番号と、その位置さえ知らない状態であったので、まず教育から始めなければならなかった、⑥6月下旬、第5航空艦隊・第32航空戦隊・攻撃501空、宮崎より「銀河」約50機が移駐、⑦501空の気象士志賀中尉と交代で勤務、④沖縄特攻を3回送る

 

5、    幽霊が気象観測?―全滅したはずの沖縄那覇から気象電報

(1)沖縄那覇の気象電報の入電状況と最後の気象電報

   1945年(昭和20年)41日、米軍の沖縄本島に上陸、②当時は沖縄地方気象台、陸軍、海軍の気象隊でそれぞれ別個に観測・通報していた、③気象放送には入電状況のいいものを使っていたのではないかと思う、④4月半ば、連日の雨による湿気でコンデンサーがパンク、通信不能、⑤野原、前田通信士、水杯を交わして、城岳の那覇無線局にコンデンサーを貰いに行く、⑥「特攻作戦を支える気象報を絶やしてはならない」と懇願して受領、通信再開、⑦524日、気象台の壕が空爆、通信機損傷、通信不能、⑧525日、田中台長代理と喜瀬氏危険を冒して、那覇無線局に真空管を貰いに行く。しかし、修理不能、⑨それ以後、615日、19日、20日まで時々途絶えながら軍の観測、通報で那覇の気象報が入電、⑩沖縄の実質的な抵抗は623日に終わる

219457月下旬か、㋇上旬に那覇から気象電報入電

   ①日本軍は全滅したはず、②誰が観測し、気象電報を打っているのか、戦後長く理由がわからなかった

(3)参謀本部「暗号班」が米軍の気象電報を解読していた

①気象電報は電文が比較的単純であるので解読しやすかった、②しかし、別な証言では解読はできていなかったという、③米軍は終戦直前の7月半ば過ぎから、戦局の見通しがついたのか、気象電報は暗号文ではなく、平文(ひらぶん)で打電するようになったからという説もある(SORA201512月号)

 

6、    天気予報を伝えて沖縄特攻を送る 

(1)大社基地で気象士官として勤務(前記)

(2)大社基地から沖縄特攻を3回出す

    86日  任務「沖縄方面索敵及艦船雷撃攻撃」

          7機  全機帰還 そのほかの記述なし、

    87日  任務「沖縄飛行場夜間爆撃及沖縄周辺の艦船攻撃」

          7機の予定だったがエンジン不調で1機出撃取り止め

        1機 分離単機で進撃、熊野灘で敵戦闘機と交戦中の連絡後、連絡を絶つ。全員戦死

        1機 被弾の為、翌朝朝鮮群山付近に不時着

        1機 被弾の為、不時着

 1機 被弾の為、全員戦死

    8月8日  任務「沖縄周辺泊地付近艦船攻撃」

          7機

        1機 沖縄上空より連絡あり、その後連絡を絶つ。全員戦死

        1機 沖縄沖の敵艦船に魚雷攻撃、帰途燃料切れで広島湾に不時着大破

        1機 エンジン不調、大分に不時着。修理後帰着

        3機 生還

(3)出発前沖縄への航路と那覇上空の天気予報を伝えて送り出す

①飛行長、当日の作戦任務下令、②離陸前に天気図説明(いわゆるブリーフィング)、③1機ずつ離陸、④1番機は「イ」の発光信号を点滅させながら宍道湖の周りを旋回、⑤2番機は「ロ」、3番機は「ハ」、・・・と全機が離陸するまで旋回、⑥夕焼けの中を南西方向に向かって編隊を組んで消えていった、⑦宮崎県の都井岬を越すと、ほとんどグラマンの餌食になり、ほとんど帰還せず

 (4)特攻隊員の苦衷忖度できず恥ずかしかった

   ①時々、”エンジン不調”とか、”前方に積乱雲”などと打電し、引き返す機あり、②飛行長に「なけなしの油を使っての出撃、正確な予報を出せ」と叱責さる、②奄美、徳之島など南西諸島の資料を使って反論、③すると飛行長、資料も見ないで、「もう良い」と一言、④特攻兵の気持ちが忖度できなかった自分が恥ずかしかった

 

7、    沖縄那覇の気象職員の最後の彷徨

(1)   沖縄気象台の職員はどう動いたか

1当時の気象台職員は98名、②転勤や招集で、職員は激減した、③323日、本格的な大空襲、④41日、米軍、嘉手納一帯に上陸、⑤527日、小禄地区の海軍全部隊南部へ転進、気象職員も与那嶺氏の護送班を残し、長堂へ出発、⑨同日、与那嶺氏の護送班、豊見城村饒波に到着、⑩62日ごろ、与那覇氏を残し、長堂に移動

(2)   気象台班、陸軍班、海軍班の3つに分ける

①気象台班6名は蚊坂の観測後、陸軍班20数人は首里石嶺も松の高地、海軍班20数人は小禄の松ケ峯、②421日、陸軍班の国吉昇氏大腿部貫通銃創 、③524日、気象班の与那嶺三郎氏落盤で重傷 、④無線機破壊され送信不能 527日、与那嶺氏の護送班を残し長堂へ出発

(3)   与那嶺三郎さんに手榴弾

527日夕暮れを待って出発した与那嶺氏の護送班6名は、28日明け方饒波(のは)に着いた。野原、黄瀬氏だけが残って与那嶺氏を守っていたが、その隠れ家にも迫撃砲弾がさく裂し負傷者が出たので、62日ごろ手榴弾を渡して分かれた

(4)   国吉氏は生存

国吉氏は月21日、大腿部貫通銃創。にわか作りの担架で長堂へ向けて出発したが、最終的には南風原の陸軍病院に移され、幸運にも生存

(5)   気象観測の再開

野原、喜瀬氏が加わり、27名になった気象台班と陸軍班は、真栄平で気象観測を再開し、陸軍の携帯無線機で福岡管区気象台に通報した

(6)   喜瀬氏も生存

     喜瀬氏も重傷を負ったが、這うようにして伊原の東2.7キロの小度にたどり着くが、気を失っているところを米軍の捕虜になり生存   

    (7)気象台職員最後の宿営地、-糸満市伊原

622日、各人で敵中突破を目指し、第14名、第2班4名、第35名の班編成をし、歩行困難な福島、喜瀬両氏は「自由行動」として別れた。これが最後となった

(8)琉風の碑の碑文

      沖縄戦も終結に近い昭和205月下旬戦局は、小禄村鏡水の沖縄地方気象台近くまで前線化した。職員は近くの壕内で業務を続けていたが、ついに527日には、壕を放棄し南へ後退せざるを得なくなった。この一団は豊見城村饒波をとおり、63日真壁村真栄平につき、そこで首里石嶺から軍気象隊とともに撤退してきた同隊への派遣職員と合流し、一体となって更に南下をつづけ、この伊原の地にたどりつた。約1カ月にわたる苦難の道をたどり、死闘を重ねて多くの同僚は戦没し負傷し、いまや全く力つき果て、622日に至り、生存者僅かに12名となり、この岩陰に集まり、最後の解散をし、その後、それぞれの悲しき運命をたどった。 

      ここに、この地を元沖縄地方気象台職員の終焉の地として戦没者70柱の御霊を祀るため全国の気象職員の芳志により、昭和30年 1215日琉風の碑が建立された。

      いま御霊の33年忌にあたり、哀切新たなるを覚え碑建立の概要を記し昇天の霊にささげる。  

 昭和52623

 

8、    天気予報は平和のシンボル

question 戦争に最も悪用された言葉は?

(1)気象事業の象徴である天気予報は日常生活に欠かせない

(2)しかし、一旦戦争が始まると、戦争に欠かせない

    (3)そのため、平時から「秘密保護法」などで着々と準備されている。その集大成が、憲法9条破壊の改憲である

    (4)憲法9条を守ることが天気予報を守ることにつながる

(5)まさに、天気予報は平和のシンボルである