矢野ゆたかさんの特別報告

狛江の市民派市政の到達点

1122日 第26回定期総会


1122日に開催した第26回定期総会では、「狛江の市民派市政の到達点」をテーマに、矢野ゆたかさんから特別報告を受けました。約1時間、パワーポイントを使って、19967月7日の矢野市民派市長誕生を実現させた市民の力、矢野市政が市民の皆さんと一緒に築き上げてきた市民本位の市政について、時にはユーモアを交えて熱く語ってくれました。以下、その講演要旨を掲載します。

 1】 市民派市政の誕生と16年間の到達点

矢野市政の誕生は1996年でした。

当時の石井三雄市長が、バカラ賭博にのめりこんで公務を放り出し、30億とも40億ともいわれる借金に追われました。億とか数千万単位で地主仲間や議員から借りまくり、資産がない議員には銀行からの融資の連帯保証人をやらせたりしましたが、それでも焼け石に水でした。最後は取立屋が上がり込み自宅に軟禁状態となり、役所の意思決定に必要な市長の決裁をもらうため、市職員が週1回決裁箱を車に積んで自宅を訪れ、ハンコをついてもらうという異常な事態が続きました。

そして市長選投票日の1か月前、突如登庁して記者会見を開き「債務の返済に追われ公務を遂行できない」と辞職を発表、そのまま失踪してしまいました。

マスコミが連日大騒ぎするなかでが市長選行われ、私が勝利しましたが、マスコミは前市長の不祥事が私の勝因だと書きたてました。でもそれが主な要因だとは考えていません。私は、不祥事というチャンスをつかみとるだけの力を、長年の市民運動の広がりと発展、そして日本共産党の意識変革と市政革新への努力、この2つが合流して生み出したのが矢野市政だと考えています。

まず、市政革新前夜とも言うべきこの2つの流れからお話しをします。

2】 日本共産党の84年市委員会での意思統一

70年代、革新勢力が躍進した時期、多摩地域では当時の27市のうち14市で反自民・革新を名乗る市政が生まれましたが、狛江はずっと取り残されていました。共産党の議席占有率も多摩地域の平均以下で、自民党系と一騎打ちとなった80年、84の選挙では20%台の得票で惨敗しました。

 共産党の狛江市委員会では、「なぜ、狛江が立ち遅れているのか」真剣な議論を始めました。そして西暦2千年までに必ず市政革新をしよう。そのために市長選で勝利できる力をつけようと、1984年、3つの意思統一をしました。

@共産党と後援会を大きくしよう。

A民主勢力の枠だけでは市長選には到底勝てません。市民全体の半数の支持がなければいけないわけですから、もっと広範な市民とつながろう。

Bいつ市政革新をしても、与党をしっかり担える市議団をつくろう。

この3つの目標に沿って、議員定数3減のもとでも1議席増を果たし、「しんぶん赤旗」を増やす活動では、89年に5人の市議で約600人の読者を2か月で増やすなど、全党を挙げた取り組みが始まりました。

3】政権担当能力を持つ党議員団へ

特に重視したのは、議員団の政権担当能力の向上です。それまでは、「保守市政の人事や当初予算は野党だから反対」とか「開発とか値上げはそれだけで反対」という発想がありました。よく「何でも反対共産党」と言われますが、そういう発想で動くから、市民には「何でも反対」に見られてしまう。しかしこれで共産党に市政を任せてもらえるのか。与党になっても耐えられるか、このような議論を経て、「野党だから」「共産党だから」を出発点にするのではなく、「市民全体の利益になるのか」「与党となっても通用する態度か」で判断することにしました。

そうした政策活動の一つが、小田急線の高架連続立体化事業です。

4】 小田急線の高架立体化事業

80年代、沿線開発で列車の本数が急増し、狛江駅横の踏切はラッシュ時で1時間に54分閉まっているなど、「開かずの踏切」が大問題で、立体化は市民の切実な要求でした。

この当時、鉄道の地下化は技術的に難しく、費用も3倍かかるといわれていました。国は高架方式しか認めておらず、地下化の場合には国の補助が出ません。しかし、高架化では立ち退きや日照、騒音被害が生まれるので、共産党は大抵高架反対、地下化を求めており、隣の世田谷区でもそうでした。狛江ではどうするか議論しましたが、共産党が良い悪いを判断すべきではない、市民がどう考えるかが大事だという結論に達しました。そこで市民意識調査を市長に提案しましたが、市はやらないというので、共産党独自で沿線住民の意識調査をすることとし、調査用紙を持って市長に通告しました。すると急転直下、市が行うと言い出し、沿線住民を含めて84%が高架でよいから早期に実現してほしいとの結果がでました。すぐに共産党として高架方式での立体化促進を申し入れ、市もようやく東京都に向けて動き出しました。都では反対運動の強かった世田谷区よりも、市ぐるみで高架化を要請した狛江を先にすることになり、95年に完成。市役所の担当管理職からは「共産党のおかげで立体化が実現した」と感謝されました。

5】 リサイクルセンター建設事業

 リサイクルセンター建設でも、共産党は大きな役割を果たしました。市がリサイクルセンター建設を決め、用地を購入しましたが、そこは閑静な住宅地、マンション、公立保育園や遊歩道に囲まれた土地ですから、住民からかなり強力な反対運動が起こり、市は断念するかもしれないと言い出しました。私たちは断念で良いのか検討しましたが、基本的には市内に必要であり、公害もそれほど出る施設ではないので推進すべきとなり、共産党は市に頼まれもしないのに反対住民の中に入っていきました。率直に話し合うと、住民も必要な施設とは認めており、土地の購入前に住民説明のなかったことが最大の不満でした。そこで共産党は、用地案はいったん白紙に戻して地元住民が参加する用地選定委員会の設置を市に提案し、実現しました。委員会では、そこで出された候補地を一つひとつ検討し、8か月後、最初の土地しかないとの結論が出ました。用地を当初案で決定するとき、地元住民は賛成とは言えないけれども、ここまで丁寧に議論してくれたので結果には従うと表明し、住宅地に住民合意で迷惑施設と言われる清掃施設が完成しました。

6】 日本共産党が存在感ある政治勢力に

こうした活動をねばり強く積み重ねた結果、共産党の議席占有率は20%に達しました。共産党に市政を任せてもちゃんとやれるのではないかという声も聞こえてきました。

7】 市民運動の発展

小田急線立体化にあわせて狛江駅北口再開発計画も出てきました。当時の狛江駅の北側には6mの車道が走るだけで、バスは入れず、タクシー乗り場もありませんでした。こうした現状から駅前整備は必要でしたが、市の案は大きなビルを6棟も建て、駅前の緑地を都市計画道路やロータリーでつぶすという案でした。駅周辺だけでなく、全市的な反対運動で市案を白紙撤回させ、住民参加での計画策定を認めさせました。そこからは住民の創意が発揮され、商業部会、自然部会、交通部会などテーマ別に分科会が設けられ、市民がいつでも誰でも参加できる仕組みがつくられました。私自身は、これでまとまるのだろうか内心不安がありましたが、各分科会の責任者たちがお互い調整し合うなどかなりレベルの高い市民参加によって、豊かな緑がシンボルとなる狛江らしい駅前整備ができ、市民の意識の高さを感じ取りました。

リサイクルセンター建設でも、用地選定までは共産党の役割も大きかったのですが、その先の委員会議論は市民主導でした。委員会では、公害対策や交通安全、景観を損なわない外観など、近隣への特段の配慮を求め、予算は数億円上積みしただけでなく、地元にだけ負担をかけられない、全市民が少しでも痛みを共有しようと、ごみ半減計画を提起し、駅頭100人スピーチをして減量リサイクルを呼びかけるなど、現在の狛江の進んだ清掃行政の礎を築きました。

このように、狛江市民は要求するだけでなく、市の基本的な都市計画でも、迷惑施設といわれるような施設の建設でも、合意形成能力があることを証明しました。

8】 市民と共産党の共同による市政革新への接近

市長選でも、主権者として高い意識と力を備えてきた市民と、市議会第2党となった日本共産党との共同が広がり、市政革新への接近が始まりました。

88年の市長選では、日本共産党が参加する「明るい狛江市政をつくる会」とミニコミ誌を発行していた女性グループとの共同で出馬した増田善信さんが38%余りを獲得し、周囲を驚かせました。92年の選挙では、「共生のまち−狛江」、北口整備に市民参加した都市計画の専門家グループと共同し、故原正敏さんが約40%の支持を得ました。次の市長選まで、市民と共産党の共同をさらに広げれば、勝利出来るところまできたというのが、当時の実感でもありました。

9】 狛江で初めての市長候補の公募運動

 96年に入って、7月の市長選の候補を公募で決めようと、現「会」事務局長の絹山さんを中心に「市民派市政を!手づくり運動‘96」という市民運動が動き出しました。

 そこで何人かの中から、当時市議だった私が選ばれたのですが、日本共産党は現職市議の議席を減らすことは出来ないと断りました。私は党員ですので党の判断に従いましたが、市民は納得しませんでした。共産党東京都委員会に押しかけ理解を求めましたが、断られました。それをみた原市長候補の選挙母体で共産党も構成団体だった「新しい狛江をつくる市民会議」も都委員会に要請行動を行ないましたが、それでもダメでした。参加した市民から不満や共産党への批判が渦巻き、党地区委員会や市議団では、このままでは84年以来築いてきた市民との信頼関係や共同の運動が崩されると考え、あらためて地元の共産党組織として再検討を申し入れました。常任幹部会でこの間の経緯を含め議論されましたが、矢野は勝てないだろうけれども、出さなければ1議席失う以上の取り返しのつかないマイナスが狛江に生まれると判断し、64日要請を受け入れ、急きょ6日に出馬を表明しました。ここからわずか1か月間の市長選挙がスタートしました。

 市民の熱意が共産党を動かし、市民と共産党の共同を発展させた新たな戦いが始まったのです。私はここに狛江市民のすばらしさを感じましたし、いろいろあったけれど、議席減を覚悟しながらも市民を大切にした日本共産党の姿勢も誇りに思っています。

10】 市民派市政の誕生

ですから96年の勝利は、不祥事で棚ぼた式に転がり込んだのではなく、このチャンスをつかめるだけの力を、長期にわたって市民や日本共産党が蓄え、共同したことが最大の要因だということがお分かりだと思います。

【11】 矢野市政の責務―@市民生活優先へ転換

失踪した石井市長の在職中は異常なほどの土木優先で、私が市長になる前年度は土木費が予算の32%を占め、東京で1番、全国でも8番目に高い比率でした。土木優先は福祉や教育の切捨て、利権や汚職を生み出すとともに、それまで100億円以下だった借金総額は、わずか5年で240億円を超えるまでになりました。

私に課せられた責務は、市民生活優先に市政を転換させることで、新規の公共事業と起債発行を抑制し、土木費を10%前後まで落とし、それで浮いた分を生活分野に回しました。乳幼児医療費の無料化は、02年多摩地域で初めて就学前まで伸ばし、学校図書館への司書職員を多摩地域で2番目に全校配置しました。学童クラブは、公立の学童保育所を全小学校区に配置し6か所、校庭開放事業と連携した放課後クラブを3か所、児童館での遊びを中心とした小学生クラブ2か所を設置し、現在6小学校に対し放課後施設が11か所と全国トップクラスの比率となりました。

12】 矢野市政の責務―A再び不祥事が生まれない仕組みづくり

もう1つの責務は、2度と不祥事を起こさない仕組みづくりで、市民の身近なところで市政が運営されていれば、不祥事に対する市民の監視にもなるので、まず情報公開と市民参加を基本に据えました。

情報公開では、個人情報などを除き原則公開とし、市長の交際費や食糧費の全面公開、そして市の最高幹部会議である庁議や行革本部の記録など、野党が「ここまで出すのか」と驚くほど公開を徹底しました。また公開請求が出たらその場で開示することを基本にしました。判断に時間がかかるケースもありますが、それでも開示までの平均日数は毎年度2日とか3日です。先進市でも1週間以上かかっているので、狛江市の情報公開は全国的にも抜きんでていると思います。

市民参加でも、審議会などには公募による市民委員を必ず入れること、重要議案や主な施設関連の予算では、計画や設計の前から市民参加をしていくことなど、基本条例で市に義務付けました。また基本条例に即した行政運営がされているか、学識経験者と公募委員とで構成される第三者審議会で毎年度評価し、その結果を公表しています。

13】 打倒のみの野党戦略

ただ前市政を根本から変える市政運営に、野党の抵抗はすさまじいものでした。

 議席の4分の3以上占めている野党が反対したら議案は何一つ通りません。野党は矢野市政打倒がすべてで、気に入らない答弁が出るとすぐに審議をとめ、市長に責任をとらせたり、再開のための条件をつけて野党の言い分を通したりしていました。

14】 「市政を動かすのは、議会ではなく市民だ」

最初の当初予算案が否決された時、ついに市民の怒りが爆発しました。会の事務所には毎日大勢の市民が駆けつけ、ふだん政治的な活動はしない人、共産党とは一線を画している方、人前では話せないと言っていた人々が、連日ビラや署名用紙、ハンドマイクを持って次つぎと外へ打って出ました。臨時議会を招集するまでの3週間で「予算通せ」の署名は8,034筆、ビラは4種類16万枚、ハンドマイクで訴えた数1,366回と、ふだんでは考えられない量と速さで事態を知らせました。野党は追い詰められ、臨時会では同じ予算案を出しましたが、結果は1事業の予算を削られただけの成立で、ほぼ完全勝利でした。このとき初めて、「市政を動かすのは議会でも市役所でもない。市民だ」と、腹に落とすことが出来ました。

15】 「協働のまちづくり」から「住民自治のまち」へ

こうした考えの延長戦上に「協働のまちづくり」がありました。

 私が市長になった頃は、「市民参加」は定着していたものの、「市民協働」の言葉は耳慣れない時代で、幾つかの先進市で模索している段階でした。市民参加は、いわば行政の土俵へ市民に上がってもらうわけですが、市民協働は、市民と行政がまちづくりのパートナーとなることです。その意義や手法を市民にも職員にも理解してもらうことから始めなければなりませんでした。

そのため、97年、0.2haの小さな公園用地を購入した機会にモデル事業を始めました。近所の住民や緑に関心ある市民が集まり、設計段階から話し合い、昔の原っぱのような公園を開設しました。従来の市民参加はここまでですが、この時、参加者に住民協議会をつくっていただき、公園の管理運営をお願いしました。これが成功し、その後もとんぼ池公園やむいから民家園、弁財天池緑地保全地区、清水川遊歩道など、施設を中心に市民管理が広がっていきました。

16】 日本国憲法92

憲法92条は「地方自治の本旨」に基づき地方公共団体が運営されると明記しています。「地方自治の本旨」と、国に対する団体としての自治と、住民自身が自ら住むところを治める住民自治の2つです。

【17】 住民自治における住民の役割

私たちが使う「住民が主人公の政治」というのは、住民自治を体現した言葉で、要求実現をめざすスローガンでもありますが、行政運営から考えると要求実現にとどまらず、まちづくりの主体に住民がなるということです。

現在地方政治には、国や都の悪政にしばられたり、財政難など多くの制約があります。一方住民要求は無数にあり、そのすべてに応えることは、革新市政といえども出来ません。市民が行政に要求することは権利ですが、地域の主人公としてそれを行使する以上、まちづくり全体の中で自らも応分の役割を担うべきと思います。もちろん、「住民の安全」「次世代の育成」「社会的弱者の擁護」など行政固有の責務は当然あり、それらまで市民の自己責任に転嫁してはなりませんが、住民要求の優先順位や市民と行政の合意形成、異なる考えの市民間の調整など、ともに考え合っていくことがまちの主人公の責務だと思います。また要求実現を妨げる壁に向けて、市民と行政が一緒になって乗り越える努力することこそ、私たち政治革新を求める者の責務だと思うのです。

更に付け加えれば、革新市政がどんなにすばらしくても、住民に成り代わって「…してあげる」という考え、つまり市民が「与えられる存在」にとどまっていては、住民はいつまでも受け身になってしまい、正しい要求であっても住民自治にはつながりません。住民自治に近づくには、こうした意識変革、相互理解が不可欠になります。

【18】 市民派市政らしい行革―@「三位一体の改革」に対する3つの道

その住民自治に狛江が接近できると確信を持ったのは、小泉政権における「三位一体の改革」を、市民と一緒に乗り越えたときでした。

私が3期目を迎えた翌月の048月、小泉政権は突如、全国の地方交付金を削減しました。狛江市では10億円前後のカットが続く見通しで、予算編成が困難になった全国の市町村は、画面にある3つの道の選択が迫られました。財政再建団体になれば事実上地方自治が損なわれるため、多くの自治体は雪崩を打つように、国から特別の財政支援が出る合併に走り当面の苦境を逃れようとしました。全国で3,100あった市町村が、「三位一体の改革」4年間で1,793、半分近くまで激減するほどでした。

19】 市民派市政らしい行革―A矢野市政の選んだ道 

狛江市では、国の財政支援は10年限りで困難の先送りに過ぎないこと、何よりも都市の大規模化は行政と市民との関係が薄まり、住民自治が遠ざかることから、独自の努力で財源不足を埋めようと徹底した行革の道を選びました。野党は、「共産党では行革は出来ない」「狛江が第2の夕張になる」と攻撃しましたが、行革を避けられない以上矢野市政らしくやろうと、@国の悪政に対し、狛江が生き残る戦いとして市民の理解を得ること、A安易な市民負担に頼らず、役所内で可能な限り財源を確保すること、B社会的に弱い立場の人々は守ること、C行革中でもまちづくりを停滞させないため、市民協働を強めること。これらを行動理念とした3年間の緊急行動計画をたてました。

20】 矢野行革は成功

この計画をやり抜いて小泉構造改革をはね返し、自立した魅力ある都市として狛江を発展させようと呼びかけ、私はのべ5千人と対話しましたが、市民はしっかり受けとめてくれました。計画は目標の10億円余を確保し、市民が私を支えてくれていると実感することが出来ました。

21】 市民派市政らしい行革― B行革中でもまちづくりは停滞させない 

緊急行動計画中でもまちづくりを前進させるため、「音楽の街−狛江」、「絵手紙発祥の地−狛江」という市民協働による狛江の魅力づくりを提案しました。音楽や絵手紙の愛好者は自分たちの活動がまちづくりの柱になると喜び、手づくり、手弁当で熱心に関わってくれ、市民からも歓迎されました。

安全の分野でも大きな成果が生まれました。狛江では2002年犯罪件数が過去最高の1,435件になりました。そのとき考えたのがボランティアパトロールで、町会や自治会、PTAなど1,200を超える市民が応えてくれました。するとその翌年から犯罪や交通人身事故が急速に減り出し、私の退任前の11年には犯罪がピーク時の半分以下662件となり、犯罪、交通事故ともに東京49市区で一番少なくなりました。東京でもっとも安全な都市の1つになったと言えます。

22 4期目の選挙−矢野行革に対する審判

こうした行革と協働のまちづくりに、市民から審判をいただく4期目の選挙では、自公や民主の候補を大差で破り、信任を得ました。

市民自身、行政に求めるだけでなく、まちづくりのために知恵を出し、汗をかき、自から街を動かすという意識が根付いたと実感した私は、この時初めて「住民自治のまち」への接近を市民に打ち出しました。

23】 住民自治への接近めざして候補者交代

ただ「住民自治」というのは一朝一夕で到達するものではありません。行政と住民、ともに実践を通して意識変革と相互作用が常に求められ、その積み重ねで互いを高い段階に引き上げていけてこそ、住民自治への接近が可能になります。ですから510年のスパーンではなく、何十年にわたる継続的な努力が求められます。

個人人気に頼る市政は一代限りで終わってしまいますから、市民派市政の長期的な継続には市長の世代交代も必要と考え、一昨年の市長選で候補者を交代しました。いわば市民派市政の長期的な展望を創り出すための挑戦でした。

 しかし現実には、自公民などの反共連合にあと一歩及びませんでした。住民自治への流れは足踏みしますが、でも45%もの市民が市民派市政継承を求めたことは貴重です。特に、相手陣営やマスコミから、矢野市政は個人人気で持っているという宣伝に対し、矢野が候補者でなくても、3つ巴の選挙なら勝てるほどの有権者が私の後継者を支持したことは、次につながると受け止めています。

24】 「市民の中での多数派」めざして

私たちは、議会では少数でも、市民の中では多数派になることを基本戦略としました。相手陣営は、私と市民を切り離そうと反共攻撃に出ますが、私たちは「反共は、市民ぐるみのまちづくりを、共産党が好きか嫌いかで分断するもの」「思想信条が違っても、住みよい狛江づくりの1点で手を携えよう」と切り返しました。そして、まちづくりでは「保守対革新」という対決構図を持ち込まず、選挙では相手候補を応援した方でも、市の公職や関係団体役員に入ってもらうなど、保守や無党派とも「住みよい狛江をつくる」の一致点で合意形成を図ってきました。

何よりも、私たちは支持者のための政治ではなく、全市民のための政治をめざしているのですから、反対派も含めたまちづくりは、市民が主人公の政治をめざす王道とも言えるものです。だから狛江では、私の市政を「革新市政」とは呼ばず、全市民とともにあるという意味で「市民派市政」と性格づけています。

改めて感じたことは、政治革新をめざすうえで、自分たちの思想や運動論に固執して、パートナーの対象を狭めては、絶対多数派にはなれないということです。違いを見つけ一線を画すのではなく、住み良いまちづくりへどう一致点を広げ、広範な市民の合意形成に力を注ぐことが大切ではないでしょうか。

25】 一点共闘から国政の転換へ

従来革新と保守が鋭く対決してきた沖縄では、県内全市町村の首長と議長が署名した辺野古への新基地建設阻止の建白書実現、この一点で保革を越えた「オール沖縄」の戦いが築かれ、16日、翁長県知事を誕生させました。那覇の革新市政を破って市長に就任し自民党沖縄県連の中心にいた翁長さんが、「日本の安全保障の在り方を議論しなければならない」と語ったように、いま県民ぐるみで悪政の根幹である日米安保体制の打破へと沖縄はダイナミックに進んでいます。

私は、狛江での「住みよいまちづくり」の一点での協働という流れが、こうした運動に引き継がれていることに感慨深いものがあります。狛江の経験は行政が主導して、市民との一点共闘を広げ、それが市民派市政の推進力となったもので、国政での一点共闘と性格は異なりますが、それでも違いを強調して一線を画すのではなく、一致点を広げ、多数派をめざす思想は共通しています。

26】 市民派市政の復活を必ず

狛江の16年間の戦いは、市民本位の市政を確立し、住民自治への接近という貴重な意義を有しているだけでなく、国政革新の運動に大きく貢献をしてきたと言えます。矢野市政が終わったことで、「豊かな会」の仕事が一段落するわけではありません。市民が主人公の市政、住民自治への接近という、憲法が地方政治に求めている姿を、もっとも体現してきた市民派市政を1日も早く取り戻していく。これは私たち狛江市民の歴史的な責務でもあると感じています。困難や複雑な局面もあると思いますが、ぜひ力を合わせて壁を乗り越え、その責任を果たしていきましょう。

以上

変更記録(2017/2/22)
84年、88年の選挙では20%台の得票で=>80年、84の選挙では20%台の得票で