70年代、革新勢力が躍進した時期、多摩地域では当時の27市のうち14市で反自民・革新を名乗る市政が生まれましたが、狛江はずっと取り残されていました。共産党の議席占有率も多摩地域の平均以下で、自民党系と一騎打ちとなった80年、84年の選挙では20%台の得票で惨敗しました。
共産党の狛江市委員会では、「なぜ、狛江が立ち遅れているのか」真剣な議論を始めました。そして西暦2千年までに必ず市政革新をしよう。そのために市長選で勝利できる力をつけようと、1984年、3つの意思統一をしました。
@共産党と後援会を大きくしよう。
A民主勢力の枠だけでは市長選には到底勝てません。市民全体の半数の支持がなければいけないわけですから、もっと広範な市民とつながろう。
Bいつ市政革新をしても、与党をしっかり担える市議団をつくろう。
この3つの目標に沿って、議員定数3減のもとでも1議席増を果たし、「しんぶん赤旗」を増やす活動では、89年に5人の市議で約600人の読者を2か月で増やすなど、全党を挙げた取り組みが始まりました。
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