平井 里美
東京都狛江市東野川3−15−4−906
熊本や大分では、いまだ余震が続き、避難生活は長期に渡ることが懸念されます。当たり前の日常が1日も早く訪れるよう、願ってやみません。必ず起こると言われている直下型地震を想定し、どんな時でも一人ひとりが当事者として行動でき、つながりを持てる、安心できる地域づくりと、市民が主体となった市政の実現を目指したいと思います。
はじめに
〜門を閉じるな、ひらけ“こま”!
先日公民館に用事があったので、いつも通り市民広場の裏門から入ろうとしたら、門が閉まっていました。敷地内に入るには、広場の周りを半周して正門にたどり着き、市民広場を横切って裏門のすぐ隣にある市民センターまで戻って来なくてはなりません。とても不便で遠回りになり、お年寄りや子ども連れ、足の悪い方はさぞや大変だろうと思いました。自転車が門を出るとき、歩行者とぶつかってしまったらしく、危ないから裏門を閉鎖したというのです。しかし、観察していると職員は裏門の横から出入りをしています。このことはまさに今の行政のあり方を象徴していると思います。
何かあったらすぐ門を閉じてしまう。中にいる職員だけは出入りできるけれど、事故の責任を問われないよう、市民には門を閉じ廃除してしまう。それで事故は防げるかもしれませんが、多くの市民が目の前に建物があるのに、何百メートルも遠回りしなければならないのです。雨が降ろうが、ベビーカーや車椅子だろうが、関係ない。事故さえ起きなければいい。一体公民館や図書館、市役所は誰のためのものなのでしょうか。
苦情が来ないように、何かあるとすぐ門を閉じ、市民が見えないようにする。市民が入れないようにする。狛江で活動していて、何となく閉鎖的で、息苦しい感じがあるのは行政の都合ですぐ閉じてしまう、今の狛江のあり方なのだと合点がいきました。私は、そんな狛江の行政の門を開け放ち、人の力で安全をつくっていくまちこそ、狛江らしいのではないかと思います。
私は第一子を出産した後、保育付き公民館講座で「ジェンダー」や「パレスチナ」「沖縄」などの問題と出会い、今の社会が差別や誰かの犠牲の上に成り立っていることを知りました。それまで「私は差別なんかしていない」と思っていた自分が、知らないこと、何もしないことで、他者を差別し、犠牲にし続けるこの社会をつくり、支えているのだということに気づき愕然としました。
どんな社会でどう生きるのかを突きつけられ、自分を再構築するために、仲間たちと学び続けたことが、私と社会がつながった原点です。
それから、「これはおかしい、変だ、嫌だ」と思った時、私は何もせずにいることができなくなりました。地域で、子どもの学校で、自分の職場で・・・たとえ小さな一歩でも、踏み出すことで、何かが少しずつ変わっていきました。
そして昨年の夏、民主主義のバトンを手渡されるはずの若者たちが、国に、大人たちに「民主主義って何だ」と問いかけたこと、更に「犠牲や欺瞞のない社会を共につくろう」と呼びかけられたことに大きく心を揺さぶられました。
今の社会をつくっている当事者として、何もしないでいることはできない。政治が自分の暮らしの一部になっていくように、政治への信頼を私たちの暮らしの中に、この手の中に取り戻したい。私たちが「ここで生きていきたい」と思える地域や社会は、空気を読んだり、沈黙を選択していては決して実現しないとの思いから、私は市長への立候補を決意しました。
「監視」ではなく「信頼」を、
「数値」ではなく「小さな声」を、
「行事」が目的ではなく「人がつながれるしくみ」を。
門を閉じるのではなく門を開け放ち、地域に出て行き、大きな声だけではなく小さな声、声にならない声を大事にしながら、皆さんの協力で政策を充実していきたいと思います。
1.
子どもも親も大切にされるまち
保育園の増設と充実で「保育園落ちた、じゃあ狛江へ!」と言えるまちに
私はずっと非常勤日本語講師という不安定な弱い立場で仕事をしながら子育てをしてきました。出産後、仕事復帰のために保育園に申し込みましたが、正社員ではないため無職扱いとなり、保育園に入れずに職を失うという経験をしました。保育園に入れないこと、それは失業につながり、生活を、子育てを、家族の将来を脅かします。それだけで十分打ちのめされている親のところに、まるで“保育園に入れないのはあなたのせいだ”とでも言うように、「不承諾通知書」という書類が1枚届きます。これからどうすればいいのか、どんな救済方法があるのかなど、当事者の立場や気持ちには全く思いが及ばない、受験の当落以上に上から目線の「不承諾」という冷酷な名前の通知書に、今なおどれほどの親たちが傷つけられているでしょう。
「保育園落ちた、日本死ね」という叫びは、まさに傷ついた私たち親のどこにも届かない心の叫びであり、上から目線の非情な行政に対する唯一の抵抗であるということを、国も自治体もしっかりと受け止めなければなりません。自治体に十分な保育所があれば福祉から切り捨てられることなく、傷つけられ、将来に怯えなくても済むのですから、保育園の増設で安心して子育てのできるまちを目指します。
しかし、定員増のための詰め込み保育、遊ぶ場所が十分に確保できない認証保育園・認可外保育所に頼る保育政策、子育て中の親が働きたいと思った時に保育園への申込みを諦めざるを得ない窓口での対応など、待機児童を数字の上だけでなかったものにする「待機児童解消」が全国で問題になっています。先日内閣府が発表した、“認可外保育施設での死亡事故が14人中10人を占める”という事実を狛江のまちの課題としても受け止め、現状を様々な視点で検証し、保育の現場の声、保護者の声をしっかりと受け止める行政でありたいと思います。
どこの保育施設の子どもたちも、みんなのびのびと遊び、安心して水遊びができ、親も安心して子どもを預けて働くことができる環境整備に取り組みます。
先に述べたように、私は失業している間、公民館保育室に子どもを預けて学習やサークル活動をすることで、多くのことを学び、地域のつながりをつくることができました。たとえ子育て中であっても、自分自身を大事にする時間や活動が、とても子育てを楽にし、楽しいものにすることができるのです。最近は一時保育ができるところが増えてきましたが、公民館保育室は保育室の運営を親と保育者と担当職員が一緒になって、子どもの育ちを考え、保育室運営にあたることを大事にしてきました。私は公民館保育室で初めて、子どもも私も対等な人間であり、どちらの日常も大事にされるにはどうすればいいかを仲間たちを考え合う機会を得ました。どんな社会でどう生きていきたい自分なのか、子どもを育てながら何を学び、自分がどう変わっていきたいのかを問われたことで、多くのことに気付かされ、母として、女性として、一人の人としていきていくことがとても楽に、楽しくなりました。在宅の親子も大事にされ、生き生きと暮らせるまちづくりに取り組みます。
2.
自由にものが言え、市民が市政に提案できるまち
3年以上に及ぶ市民センター(公民館・図書館)増改築に関しての市民運動の中で、残念ながら、市民の声は非常に行政に届きにくく、とても軽く扱われるということを実感しました。そしてまた、市への要望を市民が自由に発言できないという深刻な現状になっていること、それが私が立候補を決意した大きな理由です。
2年前、「市長と語る会」に参加して、公民館・図書館の充実を発言したところ、ここはそういうことを話す場ではない。総論はいいけど各論はだめだと発言を封じられたのです。しかし、他の市民から出た街灯やバス停等についての発言は、質問も意見交換も許されるという会でした。
また、公民館の利用団体が共同で、公民館・図書館の拡充を市民と一緒に考えて欲しいという要望書を出そうと、公民館にある団体活動室のボックスを署名用紙を入れるために使っていたら、公民館長から、あなたのやっていることは政治活動に当たるおそれがあり、団体活動室が利用できなくなるというメールが届きました。公民館・図書館のことを市民と一緒に考えて欲しいという思いを市に届けることを「政治活動」とレッテルを貼り、封じようとするやりかたに、一市民としてとても悲しく、同時に恐怖も感じました。
そのことが新聞で取り上げられ、議会質問で問われたのですが、高橋市長は、言葉の行き違いはあったかもしれないが、市に反対することを公共施設の中ではやるべきではない、やるなら外でやってほしいと答えたのです。その後市民から発言の意図を確認する公開質問状が出されましたが、回答は同じ内容でした。
大変残念ですが、今なお様々な市民が様々な場面で行政からの圧力を経験しています。職員一人ひとりはとても親切でいい人なのですが、市政の方向性が、上から目線で、不都合な市民の意見を許さないというスタンスであるため、行政から市民への脅しのようなことが、当たり前に行われるまちになってしまっています。市民が自由にものを言えず、自粛するような息苦しい雰囲気が蔓延していると感じる市民が増えています。
自由にものが言え、議論ができる、多様な価値観が大切にされ、行政と市民と専門家がいっしょにまちを考えつくっていく、そんな市民参画・市民共同を実現したいと、公民館や図書館の拡充を願う市民が昨年「市民センター(公民館・図書館)を考える市民の会」を立ち上げました。そして、市と協定を結び、市民が主体となって公民館・図書館のあり方を検証した上で「市民センターの増改築に関する市民提案」をまとめ、今月市長に提出しました。会員約220名、様々な考えや価値観を持つ市民が集まり、この1年2ヶ月で200回以上の集まりを持ちました。異なる意見を大事にしながら、ただ「公民館・図書館を良くしたい」という思いのもとに市民提案をまとめていったプロセスが生み出したダイナミズムは市内外に広がりを見せています。誰もが意見を出せる場があり、幅広い意見をお互いが丁寧に聞き合い、議論を経てまとめていくという方法、信頼関係を築きながら市民の力で課題解決していくありかたは、まさに本当に顔の見える地域づくりであることを確信しています。こういった市民と行政が対等にまちづくりに取り組む方法を、狛江から全国に発信したいと思っています。
3.
小さな声を聞く
市の財政が回復傾向にある裏で、見えにくいところで確実に広がる貧困や格差が広がっていることをしっかりと課題として捉えることが必要です。そして、市税等の徴収率をあげるために行われていること、目に見える成果の影で隠されている課題としっかりの向き合い、貧困と格差によって弱い立場に置かれがちな人々が孤立しないよう、福祉、保健、医療が連携して早急に実態の把握に努めます。
一人暮らしの高齢者の増加による孤立や、親の経済状況で子どもへの不利益が及ばないよう、声を上げにくい、声を上げることのできない人々の声をしっかりと聞き、受け止めることが重要です。行政の仕事は、市民の幸福な暮らしを保障するために考え実行することです。他者への思いやりと想像力を持ち、社会的弱者の声を聞き取る努力を求めていきます。「このまちで生きていきたい」「ここがふるさとでよかった」と思えるまちにしていきます。
4.
これからの公共施設 〜世代を超えた居場所づくり
狛江には子どもや青少年の居場所が圧倒的に不足しており、子ども同士の関わり、世代を超えた対話や関わりが持ちにくいという課題があります。また、働く世代が仕事帰りに集まったり、活動したり、ほっとするという場所もありません。狛江には宿泊できる施設も、3世代で利用できるような温泉施設もないため、そうした居場所を市外に求めるざるを得ません。
目的がなくてもふらっと立ち寄りたくなる、そこに行けば人との出会いや情報との出会い様々な活動が生まれる、そんな居場所を行政主体ではなく、市民と専門家と行政がいっしょになって考え、提案できる仕組みをつくります。市民参加がアリバイづくりとして利用されてり、行政が市民不在で進めたりということが続く中、行政と市民の対立はよいものを生み出しません。計画されている公共施設の改修や建設に関して、市民も行政に丸投げやお任せをするのではなく、市民と行政が信頼関係を築きながら、対等に意見を出し合うこと、そのこと自体が地域づくりだと捉えています。
子どもだけでなく、働きながらでも、子どもがいてもいなくても、障がいがあっても年をとってからでも、あらゆる人々がこのまちで集える場と、それがつながり続いていくことが、活気あるわくわくする狛江の実現につながると考えます。例えば、縁台や椅子を置き、だれもが休んだりおしゃべりをしたり、将棋を打ったり、カードゲームをしたり、そんな光景が当たり前になれば、カメラの監視より血の通った見守り合いが生まれるのではないでしょうか。また、空き家や空き施設を利用して、染色や織物などの工芸やアート、映像やアニメ製作に関わる人たちの活動を支援することで、市内外の交流を生み出すことが可能です。また、水道局跡地の問題なども、生活者である市民と行政と専門家ががいっしょになって考えていくプロセスを大事に、一つひとつ取り組んでいくことが大事だと考えます。
5.
市民の暮らし“人権と安全”を守る自治体の責任を果たす
私の甥は航海士を目指す学生です。昨年の9月に安保関連法が可決されるずっと前から、学校から「君たちが航海士として就職する会社には国からの割り当てがあり、自衛隊と一緒に紛争地に行くことになる」と言われていました。彼は19歳、自分の将来のことですが、今回はまだ投票権はありません。人を殺すために自らの命を危険に晒すのか、夢を諦めるのか、今投票権を持たない子どもたちに、そんな重い選択をさせる社会になっていることを、私は心から申し訳なく思います。これは国の問題ではなく、私たちの暮らしの問題であり、狛江の子どもたちの問題なのです。
原発の問題も同じです。原発で作業しなくてはならない人々は世界中にどのぐらいいるのでしょう。定期点検の前に手作業で除染を担当する作業員の存在があってこそ原発は稼働しています。原料であるウランの採掘場で被曝し、病に犯される人々は、いずれも原住民や移民、格差の底辺に位置する人々です。弱い立場の犠牲の上にある便利さや豊かさを、私たちは求めていくのでしょうか。この構造を狛江に置き換えた時、そんな差別に満ちた、命が大切にされない、弱者の声を無視した市政は絶対にあってはならないと思います。
安保関連法、原発の問題だけでなく、秘密保護法、憲法の解釈改憲も、すべて私たちの暮らしに関わる問題です。しかし、残念ながら今の狛江は、国が決めたことを何も疑わずに実行する市政になっています。市民の暮らしを守る自治体が、国に対してものを言わないことはあり得ません。命が蔑ろにされ、弱者の声を無視する国の政策に対しては、自治体として危機感を持ち、国政にものを言い、私たちの暮らしの中の、足もとの民主主義を確かなものにしていきたいと強く思います。
行政も議会も、たとえ立場は違っても、望むのは安心できる市民の暮らし、市民の幸せです。一人ひとりの幸せをどうしたら実現していけるのか、閉ざされた門の中で考えるのではなく、どんな声でも聞きに出向き、色々な人が、色々な生きていきたい未来を語る場を、私たちの手でつくり、このまちを、この社会を一緒につくっていこうと思います。
以 上
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