3月9日、前島郁雄さんが91歳の生涯を閉じた。17日の告別式で配られた略歴書には、東京都立大学名誉教授、東京地学協会会長等とともに、「豊かな狛江をつくる市民の会」代表の肩書も連ねられていた。
1996年6月、当時の石井三雄市長がバカラ賭博に狂い、30億を超える債務に追われ失踪という前代未聞の不祥事が発覚。その1か月後の市長選で、市長候補を公募で選ぼうとしていた「市民派市長を!手作り運動‘96」から推されて出馬した私は、自民系会派の正副幹事長だった2人と争うことになった。
その時、私の選挙母体として結成した「豊かな会」共同代表を引き受けて下さったのが、前島郁雄さんだった。狛江駅北口整備に関わる市民運動のメンバーだったが、政治活動には全く関わっていなかった前島さんが、日本共産党市議を31年務めてきた私を推薦してくれたことに驚き、かつ大いに励まされた。
当選後、全国唯一の共産党員市長として国の内外から注目されたが、私はそれより「市民と共産党の共同」で市政転換をしたことこそ、新しい政治の波として大きな意義があり、今の「市民と野党の選挙共闘」の流れにつながるものと、心ひそかに誇っている。
前島さんの重みを実感したのは、私の最初の当初予算案を審議する97年3月の議会だった。多数議席を持つ野党は21項目の組替え要求を出し、実施可能な要求は受け入れ、無理なものは説得し、20項目まで合意したのだが、野党は残る1項目、私の選挙公約だった高齢者入院見舞金事業予算を、私の手で削除することに固執した。
私に公約を破らせようという魂胆だったが、それを蹴った場合不信任案提出も予測され、市議選、市長選を闘う覚悟が必要だった。「豊かな会」幹部や与党市議団と会議を持ったが、私の思いを聞き終わった前島さんは、開口一番「市民を裏切ってはいかん。野党の攻撃をはねつけなさい」と語った。このためらいのない言葉に、私たちは市民本位という原点を思い起こし、一気に闘う決意が固まった。
その後予算案は否決されたが、再提案する3週間後の臨時議会に向けた「予算通せ」の運動が野党を追い詰め、最後は全会一致で成立した。この時、私の腹の底に「市政を動かすのは、議会や役所ではない。市民だ」との思いが深く刻まれ、「市民が主人公の市政」を腹の底に落とすことが出来た。まさに前島さんの一言は、市民派市政構築への号砲だった。
4期16年、困難はあっても市民派市政を継続・発展出来たのは前島さんという存在があったからだと、あらためて感じている。前島さんの好きな青森の銘酒「豊盃」を酌み交わし、これからの狛江を語り合う機会が失われたことは残念極まりない。
前島郁雄さん、本当にありがとうございました。安らかにお眠りください。
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