1月30戦争なんてイヤだ!

狛江市民のつどい 73人が結集

30日の土曜日午後、中央公民館(市民センター)2階・講座室で《戦争なんてイヤだ!狛江市民実行委員会》が主催して開催された集会には、73人の皆さんが結集しました。

映画(DVD)『九条を抱きしめて』 上映と、菱山南帆子さんのお話「戦争法廃止運動と私・・・どうして運動にかかわってきたのか」でした。

記録係を担当してくれた市原広子さんが作成し、原田一行さんが校正してくれた集会報告ができていますので、以下その全文を掲載します。

特に、残念ながら当日参加できなかった皆さん、ぜひ参考にお読みください。

「戦争なんてイヤだ!狛江市民のつどい」報告

2016130日午後2時より 狛江市中央公民館講座室にて

参加73名 

司会  西尾さん(狛江の放射能を測る会)

開会挨拶  岡村誠さん(戦争なんてイヤだ!狛江市民実行委員会代表)

◎2時5分〜 

 ドキュメンタリー「『9条を抱きしめて』
―元アメリカ海兵隊アレン・ネルソンが語る戦争と平和」

内容

1947年ニューヨーク州ブルックリン生まれ。貧困から逃れようと18歳で海兵隊に入隊。19歳でベトナムの最前線に派遣される。過酷な戦場を生き延びたネルソンさんは、帰還後PTSDを発症(18年間?苦しむ)。家族と暮らすこともままならなくなり、ひとり家を出てホームレスとなる。思えば、高校を中退して町を歩いていた時に徴兵センターの人に「ドーナツを食べながら話でもしないか」と声を掛けられ、軍隊に入れば国のために戦い英雄になる、奨学金や一時金が出るので家族を喜ばすことができると説得され入隊した。しかし、帰国してホームレスになっている自分。

あるとき、小学校の先生をしているという高校時代の同級生に街で声を掛けられ、学校で子どもたちのために戦争体験を話してほしいと依頼される。進まない気がした気が進まなかったが引き受け、通り一遍のことを話して終わろうとしたが、一人の生徒が手を挙げて質問をする。「ネルソンさん、あなたは戦場で人を殺しましたか」という問いであった。その問いに即座に答えられずにネルソンは崩れてしまう。

しかし、そのネルソンを子どもたちが取り囲み慰めてくれる。そこからネルソンは辛いベトナムでの体験を語ること、本当の戦争とはどんなものかを分かってもらうことを始める。

1年の半分を日本で過ごし戦争体験を語る活動をするようになる。沖縄や京都など。ネルソンは「海兵隊の兵士には中産階級以上の出身者はいません。すべて貧困家庭で育った若者です」「日本の子どもたちは崩れていない。それは戦争を知らないからだ。戦争を知らない目をしている」「アメリカの子どもたちもフランスの子どもたちもイギリスの子どもたちも戦争を知っている」「日本の子どもたちが戦争を知らない崩れていない目をしているのは日本に9条があるから」「日本に来て憲法9条を初めて読んだとき思わず椅子から立ち上がってしまった」となどと語る。

ネルソンはベトナム戦争で浴びた枯葉剤の影響と思われる多発性骨髄炎?で62歳で亡くなった。遺骨は京都の寺にあるそうである。

 

◎午後3時〜

 お話 菱山南帆子さん 「戦争法廃止運動と私・・・どうして運動にかかわってきたのか」

 

菱山南帆子さんは1989年八王子市生まれ。小学校5年生の時に学級崩壊状態のクラスで担任の先生の障がい者を差別する発言(「座っておれない人は特殊学級に入ってもらう」)に抗議して授業をボイコット。「君が代」の文句が気持ち悪くて嫌だった。卒業式のとき君が代不起立をして、校長先生に叱られる。6年生の時に9.11の映像を見て父親からテロには背景があることを聞き、貧困と差別と戦争は関係があることを知る。

中学は自由な教育で知られる和光中学を自分で選ぶ。理由は何か自己主張して先生に怒られるような学校ではないところで学びたかったから。和光学園の入学式は壇上から先生がお話をしたりするのではなく日の丸も君が代もなかった。こういう学校がいいなと心から思った。

イラク戦争が始まったが思うことをビラにして配ったりしてのびのび活動したが(中学2年のとき作ったビラのコピーを配布)、和光の楽しさを外にも広げなくてはダメだと思って母親と初めて集会とデモに参加。日比谷野音で集会。たくさんの人が来ていて驚く。学校では反対はされないが何をやっても賛成してくれる人が少なかったので仲間が作れなかったけれど外にはこんなに同じようなことを考えている人がいることを知り、学校外の活動に一人で出かけるようになる。

ハンセン病などの集会にも出かけた。当時はSNSもなくビラがすべてだった。毎月ビラを学校の昇降口で配っていた。辺野古にも行き、海の中のやぐらに上って海上保安庁の船を通さないようにするために船が来ると船の前に飛び込んで止めようとする活動にも加わった。一時期頑張りすぎて「普通の女の子に戻りたい」というような閉じこもりの時期があった。こうでなければいけないという思いを周りに押し付けて疲れてしまったようだ。というのも言葉一つにしても「国民」ではだめで「市民」でなくてはいけないとか、カラオケなんかダメ、しかりやらなくてはダメ、なんでしかりやらないのかというようなジレンマにポキッと折れてしまったような時期だった。

そういう時期を過ごしていると「無関心」でいることができる、無関心でも全然平気でいられるのに気づいた。私たちの時代はもともとバブルがはじけていて景気も悪くて当たり前、消費税あるのが当たり前、非正規雇用や低賃金でも怒る要素がない世代だった。テレビでも見ていれば怒る必要がもない、という生活ができることに気が付いた。ゆとり世代は「悟り世代」ともいう。成人式に出て若者の顔もみんな同じようなのに気が付いた。

大学に行き社会人になった。アパレル関係の仕事についていた。そういう時に3.11がおこった。いろいろ運動をしてきたのにまさかこのような原発事故ことが起こるとは思わなかった。エネルギーの使い方を見直すなどもう一度運動をすることになった。運動をするうえで大切だと思うのは「多様性を認める」「持続可能な運動をする」「若者が立ち上がらないと嘆く前に自分がやる、私たちがやる」ということだ。社会人として仕事をしながら闘うという形を考えるようになった。集会に行くだけでない、自分の言葉で話せるようにならないと世の中が変わらない、自分の言葉で人に話せるようになること、みんなが成長することが「まちなか(町中)民主主義」だと思う。

また集団的自衛権を認める・認めないというときに選挙があって立候補者が大きな声で「集団的自衛権に反対」と店の中まで聞こえるようにスピーカーを使って訴えていった。そのとき本屋の中にいて思ったのは、選挙の時だけでなくこれを毎日やるべきだということ。それが街頭宣伝運動を始めようと思ったきっかけ。選挙の時のようなアピールを普段からする。そのことが「許すな!憲法改悪、市民の会」の高田健さんたちの運動などでコールをするようになったきっかけです。

狛江のこのチラシはすごいですね。こんなに街宣をするのですか?(2000万人署名の駅頭・スーパー前・公園での連続署名活動の行動予定が書いてある私たちのチラシを見て)

中野晃一先生がおっしゃる「敷布団と座掛布団の話」はその通りだと思います。政党や組合などの活動が敷布団で市民活動が掛け布団。敷布団は夏でも冬でもなくてはならない。そういう話ですが。また、2015年の安保闘争とあえて表現しますが昨年の夏のことを振り返ると今までにないものでした。二つある先生の組合、でも二つある。政党も市民が間に入って手をつながせたのです。  

私は5.3憲法集会は皆勤賞です。最初は11歳の時、志位さんと土井さんが一緒に出てきた。それでも日本教育会館と別れて集会があった。2015年は一緒にやろうということになって横浜でやった(臨海公園)。浄土真宗の方たちも東西二つあったけど一緒にやっている。ママの会の人で仲良くなった人がこんなことを言っていた。「家庭内野党とかいうけど、夫がデモに行くことに理解を示さないので離婚しようかと思っちゃう」と。私は離婚しないでといったけど。一家庭の中でも一致が難しいのに、一緒にやろうとしてきているのだ。

昨年の盛り上がりの中での反省点は、働く世代や貧困層への浸透が不足、非正規雇用の方たちなどデモや集会にも来ることができない人たちへの呼びかけができていない、そういう人たちに反貧困といっても届かない。ママの会はできたが会社で声を上げられないお父さんたちが残されている。働く人が安心して生きられる社会にする運動を今度はやりたい。

国会に行きたくてもいけない人、地域が大切だなあと思った。地域でも一人でもスタンディングなどができるしやっている、どんな小さな運動も孤立させないようにしていきたい。

先日の八王子の市長選挙は低い投票率で負けてしまったけれど、対抗勢力は「市制100周年を共産党で迎えるわけにはいかない」というキャンペーンを張るなど、公明党・民主党・自民党が一緒になり、その代わり共産党に維新の党がついてくれて社民とネットも一緒にやった。

京都の市長選は民主党に心底怒っているが批判はしない、批判からは何も生まれない。野党結集を市民が実現させる。私は市民活動家。選挙はむしろ嫌いなほうだったが、「市民選挙」というスタイルが出てきている。参議院選に向けて市民と野党が結束してほしい。

 

◎会場からの質問と発言 1

 

●お話を聞いていて心に喜びが沸き上がった。私は196018歳だった。早稲田大学で安保闘争を経験した。どの政党にも属してこなかったがそれでよいのかと思うようになっていた。和光学園の教育は好き。しっかりと発言できない人のために闘ってください。(岩戸南・Iさん・女性)

●ネルソンさんの映画は子どもに見せておこうと思ってきた。(4歳ぐらいの男の子を連れて)子どもは楽しくないといっている。菱山さんは大したものだと思った。作家の逸辺見庸さんのファン。逸見さんはもう戦争へのレールは敷かれている、未来のことの答えは過去にあるといっている、現在が戦争前の空気感と似ていると言っている。逸見さんはシールズがなぜ集会の後のごみを片付けるのかと言っている。私は二人の子どもを産んだが出産は命懸けだと思った。仕事して二人の子供育てるのがいっぱいいっぱいだが、こんな私でもできるアクションはありますか?

 

【菱山さんのお答え】

60年安保を闘った方の話を聞くと国会へ国会へ向かったエネルギーを地域に持って帰らなかったと言っていた方がいた。私は戦争法成立の時、二晩続けて徹夜した。向こうは憲法違反の法律を通したのだ。敗北感はない。エネルギーに満ち溢れていた。

私は障がい者施設で働いているが、戦争になったとき押しやられる弱者や障害者を背負って闘っている気でいた。声なき声を安倍がつぶしているのだ。職場の闘いと国会前の闘いを一緒にやるのだと思っている。子供には戦争が怖いとかトラウマになるくらい映画・音楽・絵画など戦争映画でも疑似戦争体験をさせてよいと思う。今、教科書から戦争についての記述が無くなってきていると聞く。

選挙で勝っても世の中変わらないのは分かる。しかし、今日選挙は手段、頑張ってやりたい。国会前でも「国会突入しないのか」と言ってくる人がいる。70年代の学生運動をしたような人。突入したいならどうぞと思うが、高齢者ばかりで、けがをしないように国会前行動をすることにして、医療班などを充実させた。権力には権力ではなく、権力には暴力ではなく権力にも非暴力でいく、70年代はどうして内ゲバになったのか?新しい運動をやっていく。泣かせようと思っている人には私たちの笑い声を聞かせてやろう!!

戦争になるかわからないうちに戦争への階段を上っているというのは真実だと思う。職場でも戦争と全く関係ない職場はないはずだ。小さなことでも例えば署名をお願いするのでも自分の言葉で話せるように、身近なことを話せるようになるのが成長したこと。市民が成長したこと。なろう(?)。

 

◎会場からの質問と発言 2

 

●元和泉の方(男性)。お話を聞いた感動を伝えたい。時間がないけど。女性の活躍と政府は言っているが「市民センターを考える会」というのがあるがそこでも中心は女性。どうも女性はキーワードのようだ。自分も学校で18歳のころ、これがクラスだ、学校だと思ったことがあるがそういう時は男女ない世界だった気がする。国会に行くのが楽しみになった。「宗像誠也」さんという教育学者はご存知ですか?

 

●菱山さんの和光時代の先生(男性)。妻がリウマチの会に長く参加している。いろいろな方が入った幅の広い会なので政治的な話はしなかったがあるとき妻が発言したら皆が声を出してきた。そういうこともあることを紹介したい。

【菱山さんのお答え】

辺野古には今ブロックが送られてきているそうで、朝それを機動隊が片付けるのが仕事になっているそうだ。辺野古も頑張っている、改憲されても頑張っていく。

私の名前の南帆子の由来は南という字が幸せを囲むというかたちだからなのと、南帆子の帆は「帆が風をはらんで進む」ようにいろいろな意見を聞いて進んでいきたい。