特 別 寄 稿

 

参議院選挙は「負けて」いない

―都知事選に向けて

伊藤 千尋


13日、東京都知事選に向けて講演をしました。テーマは「暮らしと平和を守り、憲法をいかす東京を!」で、場所は僕が6月の市長選で野党統一候補の共同代表を務めた狛江市です。以下は、それをもとに書き加えたものです。 

1.参議院選挙は「負けた」のか?

危機感を抱いて選挙を戦った人々は「負けた」と思っていますが、そうでしょうか?

過去3回の参議院選挙の比例区の得票を与党系と野党系に分けて比べると、6年前は2965万:2425万、3年前は3714万:1354万、今回は3252万:1914万です。おおまかに言えば、順に「5:4」「5:2」「5:3」です。つまり有権者の野党系への支持は明らかに盛り返したのです。

選挙区を見ると、自民党が獲得した議席はこの3回の選挙で「39−47−37」と減っています。しかも今回、沖縄と福島の一人区で自民の現職大臣が落選しました。つまり自民党は圧勝どころか、勝ってもいないのです。

その一人区を見ると、前回は31の一人区のうち「自民29―野党系2」で自民の圧勝でした。しかし、今回は32のうち「自民21―野党系11」と2:1まで挽回しました。

野党系が勝ったのは秋田以外のすべての東北(青森、岩手、宮城、山形、福島)、北陸の新潟、中部は山梨、長野、三重、そして九州の大分県です。惜敗した福井、岡山、愛媛、長崎県を入れると、全国を縦断して野党共闘が具体的に結果を生んだことがわかります。

さらに言えば、共闘により予想以上の票が入りました。たとえば山形と愛媛の野党統一候補が得た票は、それぞれの地域の4野党が得た比例票の合計の1.7倍です。また、北海道は4月の第5区補欠選挙の経験がそのまま影響し、3人区で野党系が2議席を得ました。また、沖縄で勝ったし、鹿児島では反原発知事が誕生しました。

野党系が「勝った」とは言いませんが、けっして「負けてはいない」のです。

2.勘違い−なぜ「負けた」と思うのか

「負けた」と思うのは、結果として憲法改悪の発議に必要な「3分の2を取られたから」です。しかし今回、憲法が争点となったのではありません。ほとんどの有権者は憲法を考えて判断したのではありません。安倍首相が選挙で言ったのも「アベノミクス」だけでした。「負けた」と思うみなさんは、憲法を争点にして負けたと勝手に勘違いしているのではないでしょうか?

朝日新聞の世論調査では、「安倍政権に求める」のは社会保障32%、景気と雇用29%で憲法は6%でした。つまり、国民が求めているのは「安定した生活」なのです。有権者の「3分の2」が憲法改定で与党を支持しているのではありません。

もちろん安倍首相は選挙結果を背に改憲に突っ走るでしょう。それは2013年の参院選で「デフレ脱却」のみを主張した後に秘密保護法を成立させ、集団的自衛権行使の閣議決定をし、2014年の総選挙で「アベノミクス」のみを言った後に戦争法を成立させた過去を見ても明らかです。ここで必要なのは、まず我々自身が勘違いしないことです。

 

3.参議院選挙の評価と教訓

今回の選挙で明らかになったことは、日本列島の南北から国民がじわじわと安倍政権を追い詰めていることです。そして正規なセオリーを踏めば勝つ、しかも競り勝つということです。

では、「勝てなかった」のはなぜでしょうか? 

同じ世論調査で、今回の結果となった理由を聴いています。「安倍政権の政策が評価されたから」は、たった15%でした。そして71%もの人が指摘したのが「野党に魅力がなかった」です。

そうです。安倍政権が評価されたのではありません。問題は野党側にあるのです。野党が魅力的であれば、有権者は野党に票を入れたのです。逆に言えば、有権者は野党に期待しているのです。

そこで思い当たるのが南米チリの1988年の国民投票です。

 

4.独裁をはねかえしたチリ国民

南米チリは1973年9月11日のクーデターで軍事独裁政権となりましたが、10年後に民主化を求める抗議行動が起きました。抗議のデモに行けば警官に殴られ逮捕されます。多くの人はそこまで勇気がありません。しかし、何かをしないではいられなかった。彼らは、歌と言う形で独裁反対の意志を表明しました。テーマソングとなったのがベートーベンの「歓喜の歌」です。

僕が泊まったホテルのボーイさんは客に朝食を運びながら「歓喜の歌」のメロディーを小さく口笛で吹きました。昼の取材で乗ったタクシーの運転手さんは運転しながら「歓喜の歌」をハミングしました。夕方に街を歩いたさいに見かけた街角の笛売りは「歓喜の歌」を演奏しながらオカリナを売りました。「苦悩を通じて歓喜に至る」というこの歌に、人々はチリの実情への不満と未来への希望を込めたのです。

1988年には、軍事政権を今後も続けるか、民主主義に戻すかを問う国民投票が行われました。軍事政権は自信満々でした。だって、クーデター以来の15年間、マスコミでは検閲を敷いて軍政を称える報道しか流さなかった。表立って軍政を批判する声など聞かれなかったからです。

それは野党側の政治家も同じでした。しかも、軍政側は一枚岩でしたが、野党は17党に分かれていました。野党の足並みが整わないことは今の日本どころではなかった。軍政に反対して運動する人ほど状況に絶望し、投票をしても勝つはずがないと思い込みました。

余裕しゃくしゃくの政権側は、選挙前に1か月ほど検閲を部分解除しました。1日にたった15分、それも深夜、野党側が作った番組をテレビで放映できるようにしたのです。民主化を求める国際世論に配慮したのですが、一つの野党あたり1分もないのですから、どうせ影響力はないと高をくくったのです。

ここで野党側は結束しました。民主主義の一点に置いて団結したのです。共同で番組を作ることになりました。最初、野党の年配の政治家が主張したのは「どうせ負けるのだから、このさい軍政の悪をあげつらおう」ということです。軍事政権下で市民が虐殺された暗い過去を告発する暗い映像が作られました。  

そこに異議をはさんだのが若者です。「勝つ気があるのか? 勝つためには暗い過去ではなく、明るい未来と夢を訴えなくちゃいけない」と主張しました。 

「みんな本音では民主主義にしたいと思っている。大切なのは有権者の本音を引き出すことだ。そのためには希望を語ることだ」と。こうして作られたのが「チレ! ラ・アレグリア・ジャ・ビエネ(チリよ、歓喜がもうやって来る)」というキャッチフレーズです。軽快なメロディーに乗せてテーマソングも作られました。

そうです。あの困難な苦悩の時代に求めた歓喜が、今回のたった一回の投票で実現することを示したのです。口ずさみやすいこのメロディーは、瞬く間に全国に広がりました。軍人の子どもも街で歌いました。15年の沈鬱な空気は、たった1カ月で変わりました。

国民投票の結果は、55%:44%で民主主義の勝利でした。こうしてチリの国民は平和な投票によって独裁政権を変えたのです。そのキーワードが「希望」です。

日本の運動はえてして、政権が「ダメだ」とか、戦争法を「廃止しろ」とか、税金を私物化「するな」とか、否定的な言葉を唱えがちです。デモのさいにも、こういった言葉がよく叫ばれます。しかし、否定的な言葉は、聞いている市民に不快感を与えます。「じゃ、あんたたちはどうしたらいいと思っているのか? 不満しか言えないのか?」というごく自然な反発が生まれます。

大切なのは希望を語ることです。聞いている人々が納得できる、明るく、かつ具体的な未来像を示すことです。

英国といえば、先のEU離脱を思い浮かべるでしょうが、東京都知事選に当たるのが首都ロンドンの市長選挙です。この5月に行われたロンドン市長選挙では野党、労働党のサディク・カーン氏(45)が当選しました。彼はイスラム教徒です。父はパキスタン移民のバス運転手で、自らは人権派弁護士です。

彼が当選後の第一声で語ったのは「市民は恐怖より希望を選んだ」という言葉でした。イスラム教徒で移民の子という二重苦を背負う彼が支持を集めることができたのは、「希望」を語ったからです。それが有権者の心に響いたのです。

さて、今回の都知事選について述べましょう。

 

5.都知事選

7月14日に都知事選が告示されました。おお、フランスで言えば「パリ祭」の日、つまり自由と人権を求めたフランス革命の記念日ですね。それにふさわしい選挙となってほしいものです。

でも、31日に投票ですから、選挙期間は2週間余りと短いですね。僕が6月にかかわった狛江市長選挙はたった1週間でした。こんなに短くては政策論争をする時間がありません。日本の選挙が候補者の名前だけをがなり立てるのは、そのためです。海外の選挙の期間は1か月が普通ですよ。アメリカ大統領選挙は1年近くもあり、そこで政策や人柄などが厳しく問われます。日本でもせめて1か月はほしいものです。

さて、早くから名が挙がっていた小池百合子さんはいち早く名乗りを上げましたが、自民党の都連を素通りしてさっさと発表してしまった。自信を持っている人はとかく根回しを怠りがちです。このあたりはチリの軍部と同じですね。そういえば小池さんは元防衛大臣でした。

これに怒ったのが、無視された都連です。なにせ内容よりもメンツを重んじる人々ですからね、政治家という人種は。しかも女性から無視されたというので、保守のおじさまたちはいっそう怒ったのでしょう。その意を受けた自民党本部は、元総務大臣で元岩手県知事でもある増田寛也さんを担ぎ出しました。  

公明党もこれに乗りました。名前の小池か、実の増田か、といったところです。

ともあれ、こうして与党側は分裂しました。野党側にとっては、まさに「千載一遇のチャンス!」です。野党側で早くから準備を進めていたのは、過去2回の都知事選に立候補した日弁連元会長の宇都宮けんじさんです。早くからチラシを刷って準備しました。僕の手元にそのチラシがありますが、プロのカメラマンが撮ったポーズ写真といい、キャッチフレーズの良さといい、なかなか堂にいったものです。

そのキャッチフレーズは「“困った”を希望に変える東京へ。」です。さすが選挙を何度も経験された宇都宮さんは分かってますね。「希望」の2文字が入っています。裏面には「都政のすべてを都民のために」「3・11をわすれない。原発のない社会を東京から」など「東京を希望のまちに変革する7つの政策」がきちんと書かれています。いかにも早くから準備していたことを思わせます。

人柄も政策も申し分ない。しかし、(悪いけど)華やかさもない。選挙は人気投票ではないと言いますが、それは政策がきちんと浸透したうえでの話です。選挙期間が短い日本では、現実には人気投票にならざるをえないのも事実です。せっかくのチャンスなのに宇都宮さんで勝てるのか、という危惧をいだいた野党側に別の動きが生まれました。

ここで彗星のように登場したのがジャーナリストの鳥越俊太郎さんです。毎日新聞の記者からテレビ・キャスターを長年やって、知名度は抜群。しかもダンディで、巷の人気もあります。選挙で勝つためには個人が持つ「オーラ」が必要です。言葉を替えれば、人を巻き込む情熱、あるいはセックス・アピールと言ってもいいでしょう。鳥越さんには、それがあります。僕はひそかに「男の蓮舫」と呼んでいます。

 実は、僕は鳥越さんをよく存じてあげています。彼がキャスターをしていたテレビの番組にコメンテーターで出演したこともあります。現役の新聞記者だった5年前には、彼について3回の長い連載記事を朝日新聞に書きました。

 

6.鳥越俊太郎さんとは

鳥越さんは毎日新聞で24年、記者を続けました。「死んだら棺を毎日新聞の社旗で覆ってもらいたい」と家族に言い置くほどの根っからの新聞記者です。 

とはいえ、会社からは記者として有能とみなされなかった。まあ、自分でも「落第という烙印を押された」と言うほどです。社会部から週刊誌「サンデー毎日」の編集部に異動を命じられました。当時は落ちこぼれた者が飛ばされる先が週刊誌だと言われていたからです。

ですが、ここでジャーナリストとしての本領を発揮しました。ロッキード事件で逮捕された田中角栄首相の地元の町に3か月住み込んだのです。

田中角栄が総理として権力の絶頂にあったとき、マスコミは彼を「今太閤」と呼んで持ち上げました。でもロッキード事件が起きて逮捕されると一転して彼を非難したのもマスコミです。しかし、田中角栄の地元ではなお、彼を称える有権者が多かった。マスコミはそうした地元の有権者をも批判しました。

そのとき、地元の人々の視点に立って見つめようとした数少ないジャーナリストの一人が鳥越俊太郎さんでした。田中角栄の地元の町に3か月住み込み、過去の日本の発展から取り残されてきた日本海側の住民の視点で記事を書きました。

現場に踏み込んで事実を見極め、現場の人々の視点で考えようとする姿勢は駆け出しの記者時代からのものです。農業の取材のため重いテープレコーダーをかついで田んぼに入り農民の声を聴きました。このときのことを鳥越さんは「大所高所でなく、アリの目で這いずり回って書く現場主義に徹した」と語っています。

鳥越さんは41歳のとき、毎日新聞を1年間休職し、米国の新聞社の研修生になりました。このまま定年までだらだら過ごしたくない、可能性があるうちに能力を身に着けたいと考えたからです。40代というのは、当時の新聞社で言えば記者からデスクという中間管理職に上がる年代です。多くの人々は出世の階段を上ろうとします。でも、鳥越さんは生涯一記者を目指していました。

だからといって英語ができたわけじゃない。会話の試験は落第でした。合格したのは書類で提出した英文が見事だったからです。実は、英語が堪能な若い記者に書いてもらったのです。あ、ずるい、なんて思わないでください。要領がいいってことです。

普通、その程度しか英語ができなければ、現地に行って苦労するのは自分ですから、そもそもアメリカ行きなんて考えません。彼は違いました。自分を追い込むタイプなんですね。現場で苦しんで自分を鍛えようとしたのです。同時に、行けばなんとかなるという日本人離れした楽天性をも持っていました。

ここまで話を聞いたとき、鳥越さんはニヤッと笑って小さいころの自分を振り返ってこう言ったのです。「僕はね、『泣き虫の俊ちゃん』と呼ばれてたんだよ」。人前に立つと震えて話せなくなったそうです。まあ、今と大違いですね。彼は大学時代に合唱団のマネジャーとなり、自分から人前に立たざるをえない状況をつくって自分を鍛えたのです。人前に出ると上がって頭が真っ白になってしまう方は、鳥越さんを見習いましょう。

アメリカから帰国すると週刊誌から新聞に戻りましたが、イランのテヘラン支局長を命じられました。そこで落ち込んだそうです。アメリカの特派員になれると思っていたからです。まあ、この辺が鳥越さんのずうずうしいところです。アメリカに1年住んだくらいでいきなりアメリカの特派員になれるわけがない。しかも、イラン特派員をアメリカ特派員の下だと考えるって、あんたらしくないじゃないかと思うのですが、「テヘラン行きは当時の毎日新聞外信部で最低のランクだったから」と彼は言うのです。まあ、鳥越さんなりにプライドというものがあったのでしょう。

しかし、イランに行ったおかげで今日の国際政治の焦点となっているイスラムについて知ることができました。農業やイランという、彼に言わせれば「日の当たらない、だれもやりたがらない」部門でやったおかげで、「オセロゲームのように白黒が逆転して今の私に役だっている。人生って面白い」というポジティブな発想をする人なのです。

その後は週刊誌「サンデー毎日」の副編集長になります。週刊誌といえばよく誤報を出します。「サンデー毎日」が誤報を出したとき、社としてはなんとかうやむやにしようとしました。しかし、鳥越さんは社の幹部を説得して8ページもの詳細な検証記事を掲載したのです。これはアメリカのジャーナリズムの報道姿勢です。アメリカでの経験は実際に役に立ちました。いえ、身を持って役に立たせた鳥越さんを称えるべきでしょう。

「サンデー毎日」の編集長となったとき、テレビ朝日から思いがけない話が舞い込みました。新設する調査報道のニュース番組のキャスターをしないかというのです。実は社会部時代に知り合った作家の澤地久枝さんの推薦だったのですね。その話に鳥越さんは飛びつきました。かねて「50歳になったらフリーのライターになろう」と思っていたからです。このとき49歳。う〜ん、こうしてみると、ジェットコースターのような人生ですが、要はツキまくっているのです。「塞翁が馬」を絵に描いたような人です。

50歳でテレビ界へ入っても、やったことは新聞記者時代と同じでした。「現場へ、アリの目で」がモットーです。天安門事件の中国へ行き、ソ連崩壊の瞬間を赤の広場から報告し、オウム真理教の家宅捜索のさいも山梨の現場から伝えました。埼玉県の女子大生殺人事件では警察の手落ちを検証して「ストーカー規制法」の成立をもたらしました。調査報道の面目躍如です。

2004年のイラク戦争時にも現場に行き、周りから「死ぬ気か?」と止められたにもかかわらず、フセインの隠れ穴があった危険地帯に踏み込みました。

神に愛されているのではないか、と思えるほど幸運が続いたその彼に、突然の試練が訪れます。「がん」を宣告されました。

 

7.がんとの闘い

鳥越俊太郎さんが自分の身体に異変を感じたのは、今から11年前の2005年の夏です。下腹部に重い感じがあり、トイレで便器が真っ赤になるほど出血しました。病院で検査すると、内視鏡のモニターに写ったのは馬蹄形をした、明らかにがんとわかる肉腫です。どんなに気丈な人間でも普通は打ちひしがれる場面ですが、彼は違いました。「しめた」と思ったのです。

「がんを知る絶好のチャンス。ごまかさないで洗いざらい伝えよう」と彼は考えました。知人のディレクターに連絡し、「俺がくたばるまで記録してくれ」と頼みました。以後、ディレクターが撮影したのは1時間テープで400本に上ります。

手術が行われました。「これが世の見納めかもしれんなあ」と思って運ばれたストレッチャー。意識を取り戻したのは4時間後で、がんの転移はなく進行度は第U期でした。1か月の入院で体重は8キロ減りました。

しかし、2年後、肺への転移が見つかり再び手術を受けます。ここでがんの進行度が第W期と言われました。末期がんの宣告です。生存率は20%。さすがにショックでしたが、ここで「俺はついているから、何とかなる」と思っちゃう人なのですね。

左肺の手術、さらに7か月後に右肺の手術、さらに2年後には転移した肝臓の手術。鳥越さんはその経緯を語りながら、僕の目の前で着ていたシャツのすそをまくりました。右の腹に38センチもの縫い目がくっきりついています。こんなに大変な大手術だったのだ、と言いたいのだと思ったのですが、違いました。「皮膚の内側から縫合する面倒なやり方を主治医の先生は実に丁寧にやってくれたんだよ」という説明のためでした。

その体で鳥越さんは2011年4月、福島第一原発の取材に向かったのです。事故からまだ1か月で、報道陣は原発に近寄らなかった時期です。前へ、前へと突入し、気が付くと正門前にいました。ジャーナリスト魂はまったく変わっていません。

4度の手術を乗り越え、あ、鳥越ですから飛び越えと言った方がいいかな。なお潜伏するがんの心配にさらされながら、楽天的な性格はそのままです。70歳になったときは「創立70周年記念事業」と銘打って、これまでやったことのないことをやることに決めました。

まず、頭にパーマをかけた。しかし、似合いません。すぐにやめました。やったことのない筋力トレーニングを始めました。週3回、今も続いています。今後は社交ダンスを練習して女優とタンゴを踊りたいとか、映画監督をしたいとか、まあ好きなことを考えました。そこに降ってわいたのが、今回の都知事選です。

最初に野党から打診されたときは断ったのですが、今回の参議院選挙の結果を見ていきり立った。しかも、長野で野党連合の候補として自民党の現職を破って当選した58歳の元TBSのキャスターと話すと、年上の自分として何もしないではいられなくなった。またしても自分を奮い立たせ、都知事選への立候補を決意したのです。

鳥越俊太郎、このとき76歳。これまでの東京都知事で就任のときの最高齢は鈴木俊一氏の68歳です。それよりも8歳も年上です。アメリカ大統領に選出された最年長がレーガンの69歳でしたから、それよりも年上です。大丈夫かな、と思う人はナマの彼を見てください。もう元気いっぱいです。

 

8.野党共闘なる

都知事選への立候補を決意した鳥越俊太郎さんは、いったん断った野党側に出馬の意志を伝えました。野党は喜びました。「鳥越さんなら浮動票を呼べる。勝てる」と踏んだからです。参議院選挙で共闘した野党4党は、先に立候補を決めた宇都宮健児さんを慮りつつも、ほどなく鳥越さんを推薦しました。「宇都宮さんでは浮動票を取れない」と踏んだからです。

宇都宮さんにとっては怒りしかないでしょう。事実、「またも懲りずに政策でなく人気で選ぶのか」という趣旨の発言をしています。その時点で抱いていた政策では、明らかに宇都宮さんの方が鳥越さんよりも優れていました。というか、鳥越さんは義憤に駆られて立候補を決意したけれど、公約の用意はありませんでした。宇都宮さんとしては、真面目に選挙に取り組んできた自分を何だと思っているのだという憤りを当然抱かれたでしょう。彼は、理不尽なことをされたら損得勘定を無視してでも反発し闘う性格です。抗議の意味から敢えて立候補することだってあり得ました。

しかし、それは私憤であって公憤ではありません。野党が分裂したら、せっかくのチャンスをつぶして与党が勝つでしょう。そのさいは宇都宮さんが「戦犯」扱いされるかもしれません。大局的な見地から、告示日の前夜に立候補を取り下げました。とても勇気ある決断だったと思います。

それができたのも鳥越さんが宇都宮さんに会見を申し入れ、宇都宮さんが掲げた政策を全面的に引き継ぐことを伝えたからです。宇都宮さんにとっては面目が立ったし、鳥越さんにとっては用意してなかった政策を埋めることができました。なにせ13日の段階で鳥越さんが掲げた政策は「がん検診100%」しかありませんでしたからね。まあ、これで「顔は鳥越、頭は宇都宮、身体は野党共闘」という形ができたわけです。

都知事選が告示された昨日の14日、鳥越さんが新宿駅前で挙げた第一声で掲げたのが「住んでよし、働いてよし、環境よし」です。うまいことを言いますね。でも、これは近江商人の持つ「売り手よし、買い手よし、世間よし」の商人哲学のパクリです。まあ、てらいもなくさらっとパクることができるのも一つの才能かもしれません。

パクリといえば、改めて鳥越さんが掲げたのが「“困った”を希望に変える東京へ」です。これ、宇都宮さんのキャッチフレーズの完全なパクリです。宇都宮さんの政策をそのまま引き取ったことの目に見える表現でもあります。

まあ、よそさまの良いものをパクってもっといいものにするのは日本人の得意技です。ドイツのカメラ、スイスの時計、アメリカの自動車を真似て、もっといいものにして発展したのが日本です。日本人の心性の見本のような行動です…と思っちゃいましょう。

さらに鳥越さんが言ったのが「がんから生還した男です」という言葉です。まあ、本人は意識していないのでしょうが、キャッチとして実にうまいなあ。そう思いませんか?

何がうまいかと言うと、逆境を乗り越えたというだけで人々は喝采しますよね。よくやった、と拍手したくなります。そこに並みの人間を超えたスーパーマンあるいは蘇ったキリストを連想する人だっているかもしれません。さらに「生還」つまり「生きる」というポジティブな表現が共感を呼びます。希望を感じさせます。

鳥越さんはもちろんスーパーマンではありません。彼を少し知っている人は彼を「気さくな人」と肯定的に評価します。彼をよく知る人は彼を「軽い」と表現します。たしかに熟慮して着実な対応をするタイプではなく、その場の思いつきでパッと決めてパッと実行するやり方です。これは現場から伝えるジャーナリストには最適の資質ですが、言論を担う報道人としてはいかがなものか、と思う人もいるでしょう。ましてや、それで都知事が務まるのかという疑問を浮かべる人が出るのは当然だと思います。

ジャーナリストとして優れた人が政治家として優れているとは限りません。では、政治を専門にやってきた政治家に任せれば、政治はうまくいくのでしょうか。これまで日本の政治は政治家が運営してきましたが、うまくいってますか?

政治家って、何でしょう?

 

9.政治家とは

政治家というのは特殊な職業です。最初から職業が政治家という人はあまり聞きません。若いうちに議員秘書など政治にかかわる職業に就いたとしても、それは政治にかかわっているだけであって政治家ではありません。政党のメンバーなら団体職員です。逆にどんな職業をしていても、選挙で勝てば政治家になれます。民主主義の下では、政治家は「なる」ものであって、「ある」ものではありません。

そして政治の中身は大きく二つに分かれます。ビジョンと行政です。ビジョンとはどんな社会にするのかの展望、そして行政とはうまく仕切るテクニックです。

テクニックを取り仕切るのは官僚です。だれが知事になっても、実際に都政を運営するのは都の職員です。東京都の職員数は一般行政職だけでも1万8千人で、公営企業や警察、教職員を含めると16万5千人もの数に上ります。これだけの専門家の人々が日々の都政を支えているのです。都知事は16万5千分の1なのです。都知事がだれであっても、いや敢えて言えば、都知事がいなくても都は機能します。石原都知事なんて庁舎に来ないことが日常だったというではありませんか。

だから都知事の本来の重きをなす仕事は、行政よりもビジョンを示すことです。優れたジャーナリストが必ずしも優れた政治家ではないように、有能な行政マンが有能な政治家でもないのです。例を示しましょう。

1989年に東欧革命が起きました。ベルリンの壁が崩れ、その波が東欧諸国に広がりました。当時、僕はチェコとルーマニアの革命のさなかで取材しました。

チェコで新たに政権に就いたのはバーツラフ・ハベルです。独裁に反対する反政府市民運動の代表だった人ですが、彼のもともとの職業は戯曲家ですよ。つまり劇作家、日本で言えば井上ひさしさんか小田実さんという立場です。

作家がいきなり大統領になってしまった。それでうまく行くのかと思われるでしょう。

とってもうまくいきました。その後も選挙で選ばれて、大統領を10年も続けました。このときの日本と言えば、プロの政治家と言われる人が首相を務めきれず、1〜2年で交代していたときです。

大統領や首相が一人で何もかもやるのではありません。経済や教育などそれぞれの部門を専門とする閣僚がおり、その下に官僚がいます。ハベル氏は経済学者を経済担当の閣僚にして任せました。大統領が決めたのは、どの方向に国を持っていくか、ということだけです。

それは革命後のキューバでも同じでした。キューバ革命のあとに中央銀行の総裁になったのがチェ・ゲバラです。彼は医学の学校を卒業したばかりの医者の卵でした。もちろん経済など何も知りません。その彼が中央銀行総裁として、しかも革命後の混乱期になぜうまくやれたのでしょうか。

ゲバラは経済の専門家を集めました。彼らに経済の方向性だけを示し、あとの具体的な方策は任せたのです。野放しに任せたのではありません。任せるかたわらゲバラは経済を学習しました。3か月で経済専門家が「あなたに教えることはもう何もない」と嘆息したほどでした。

 

10.ビジョンを持つ

つまり政治家と行政マンは違うのです。大航海時代の帆船を使った探検を例にとりましょう。どこに行くかを決めるのは探検隊長で、その方向に行くように船を操るのは船長をはじめとしたプロの乗組員です。なにも隊長が帆の張り方や羅針盤の見方などまで知らなくてもいいのです。ましてやコンピューター時代の今ならなおさらです。もちろんそういったこまごまとしたことまで知っているのに越したことはありませんが、必須ではない。それよりも大局的な見通しを示すことが求められるのです。

したがって、優れた政治家、優れた都知事に必要なのは10年後、20年後の東京をどうするかを見据えてビジョンを示すことです。

そこで問われるのが「誰のための政治か」という立脚点です。都民のすべてを視野にいれるのか、あるいは特定の人々だけの利益を図るのか、です。これまでは一部の人々だけの利益を追求してきた政治家がほとんどでした。これではだれもが称賛する優れた政治家とは言えないと僕は思います。

先ほどチェコの作家で政治家になったハベルのことを言いましたが、作家と言えば都知事になった石原慎太郎という人もいます。彼とチェコのハベルと、何が違ったか。それこそ「だれのための政治を目指したか」という点です。一部の大企業や金持ちのためか、貧しい人々も含めたすべての人々か、の違いです。

社会格差を広げるのか、格差をなくすのか。そこを問われるのが今回の都知事選です。鳥越さんはみんなの、そして弱者の立場に立っています。「一部の人ではなく、都民みんなに都政を取り戻す」と言っています。与党の候補にはこうした姿勢は見られません。

1967年、東京には革新都政が誕生しました。知事になったのは学者だった美濃部亮吉氏です。彼が都知事選で掲げたキャッチフレーズが「東京に青空を」でした。当時の日本は公害問題が蔓延していました。四日市では「スモッグの下でのビフテキよりも、青空の下でのおにぎりを」というスローガンが登場しました。いわば、そのパクリです。犠牲者を出しても産業の発展を優先するのか、経済的な富よりも自然と共存し安心した暮らしを保障するのか、の違いです。そのどちらにするのか、を端的に示したキャッチでした。

言葉倒れではありません。建築家をブレーンとして「広場と青空の東京構想」を示しました。首都高速や空港などの大型建設工事を中止し、公営ギャンブルも廃止しました。かたや国に先駆けて公害局を設置し、老人医療費の無料化制度をつくり、無認可保育所を助成し、児童手当を創設しました。やるべきことをちゃんとやり公約を守ったのです。鳥越さんには、こうした過去をぜひ参考にしてほしいものです。

 

11.変えよう日本

冒頭で、今回の参議院選挙で実現した野党共闘の結果、日本列島の南北から国民がじわじわと安倍政権を追い詰めていることを示しました。これに加えて日本列島の中央の東京で野党共闘が勝利すれば、その流れは決定的となります。日本の政治の雰囲気はがらりと変わるでしょう。楽天的に、かつ希望を前面に出して、日本の社会を変えようではありませんか。

勝算は十分にあります。与野党の対立、そして保守分裂さらに参院選の直後だけに投票率は上がるでしょう。前回は46%でしたが、今回は50%を超えるでしょう。有権者数は1130万人です。当選ラインは200万票と言われます。参院選の東京選挙区で民進党が獲得したのは163万票、共産党が66万票、社民党が9万票でした。その合計だけでも238万票あります。これに浮動票が加われば問題なく圧勝します。

危機感を抱いた保守陣営はおそらく鳥越攻撃をしてくるでしょう。お定まりの「女性」「カネ」などですが、それは保守陣営の方にはねかえりそうです。そして何を言われても鳥越さんはひるみそうにありません。

鳥越さんが胸につけているバッジにお気づきでしょうか。「無敵」と書いてあります。がんの宣告を受けたときに、名古屋の書道家からもらったものです。  

がんと闘うために「がんも敵ではない」という意志を示すとともに、ついひるみそうになる自分を鼓舞するために、もう10年以上も身につけているのです。彼はすでに遺言も残しています。臨終の枕元にはオスカー・ピーターソンのジャズピアノ曲を、棺の中は真っ赤なバラで飾って、通夜の料理は赤ワインとぜんざいにし、墓も戒名も不要だそうです。お迎えにくるならどうぞ、もう何も怖くない…と言う心境でしょう。

鳥越さんは、すでにこれが人生最後の仕事だと覚悟を決めています。現在が76歳で、1期4年が終われば80歳の傘寿です。神宮球場のマウンドに彼を座らせ、いっぱいに埋め尽くした観客席で東京音頭を合唱しながら傘を振って祝いたいものです。指揮は、学生時代に合唱団にいた鳥越さん本人にやっていただきましょう。

 ☆

これでおしまいです。字数を数えたら13517字になりました。東京都の人口が1351万です(笑)。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。